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労働者のニーズにもあわなくなった労働法

 

https://diamond.jp/articles/-/16583?display=b

2012.3.15

気鋭の労務専門弁護士である向井蘭氏に、労働法と労務トラブルの「経営者のための」ポイントを解説してもらう連載の第1回。工場労働者を守るための工場法を元にして制定された労働法は、現在の日本の働き方に合わなくなり、経営者だけでなく労働者のニーズにも合わなくなっているという。

労働法が「契約自由の原則」を制限する
 使用者と労働者が雇用契約・労働契約を結んだときから労使関係が始まります。

雇用契約・労働契約とは、労働者が使用者に使用されて労働し、使用者がこれに対して賃金を支払うことを内容とする契約です。

 つまり、職業の種類を問わず、会社に使用されて賃金を支払われる人は、正社員であろうが、契約社員派遣社員、アルバイト・パートであろうが、すべて労働者であり、使用者との労使関係が成り立ちます。

 ところで、契約の一種である雇用契約・労働契約には、「契約自由の原則」が適用されることをご存知でしょうか。

契約自由の原則とは、社会生活において個人は、国家の干渉を受けることなく、自己の意思に基づいて自由に契約を結ぶことができるという民法の大原則です。

 つまり労使間で締結する雇用契約は、その内容が公序良俗に反しない限り、誰と契約するか、契約の内容をどうするか、その方式はどうするか、当事者間で自由に決められるのです。

 たとえば漫画家のアシスタントとして働く人のなかには、「憧れの先生のもとで働けるなら時給100円でもかまわない。ただ働きでもいいくらいだ」と考える人もいるでしょう。

 その場合、漫画家とアシスタントが互いに納得しているならば、時給100円の雇用契約を締結することも、民法上は可能となるわけです。

 しかし実際には、その雇用契約は無効となります。なぜなら雇用契約・労働契約に関する契約自由の原則は労働法によって大幅に修正されているからです。

 

労働法は戦前の「工場法」が元になっている
雇用契約・労働契約の自由が制限された背景には、日本の近代化の歴史があります。

産業革命の進行、工業化とともに資本主義経済が根付き始めた明治時代、日本では労働者階級の安全性を欠く労働環境、労働条件の劣悪さが徐々に問題視されるようになりました。

 『ああ野麦峠』(山本茂美)や『蟹工船』(小林多喜二)に描かれている悲惨な世界です。工場労働者の過酷な長時間労働と低賃金が、日本の文明開化、富国強兵、殖産興業を支えたのです。

 そんな工場労働者を保護するため、1916年に工場法が施行されました。それにより雇用契約の自由は制限され、幼年労働者や女子労働者の雇用、労働時間や深夜労働が規制されることとなったわけです。

 戦後、1947年に工場法は廃止されました。しかしその精神は、新たに制定された労働基準法に脈々と受け継がれています。

 すなわち、労働基準法をはじめとする日本の労働法は、

使用者の労働者に対する権力は圧倒的に強いため、契約自由の原則をそのまま適用すれば労働者にとって劣悪な労働条件の雇用契約を強いられることになりかねない

安全性を欠く労働環境で無理な労働を強制させられれば、労働者が健康を害しかねない

という考えに基づいて制定され、使用者側の契約の自由を大幅に制限しているのです。

 ですから、たとえ「時給は100円でもかまわない。3時間の睡眠時間さえあれば、休憩時間も必要ない」というアシスタント志望者がいたとしても、漫画家はその内容で雇用契約を結ぶことはできません。

最低賃金法で定められた最低賃金額以上の賃金を払わなければなりませんし、休憩時間の取り決めも必要になります。残業が発生する場合には、あらかじめ労使間で残業を可能にする協定を結び、残業代もすべて払わなくてはなりません。
 

本当に労働者は弱者なのか?
 しかしながら「労働者の立場は弱い」という労働法の前提は、現代の日本企業で成立するのでしょうか。

 昔とは違い、労働者はかなり自由に職業を選択できるようになっています。もし意にそわない職に就いたとしても、すぐに辞めることができるでしょう。

 明治から昭和初期に紡績工場で働いていた女工のように、監獄のような工場に閉じ込められて脱出できないという労働者はまずいません。使用者に過酷な労働をしいられて泣き寝入りせざるを得ないという人はほとんどいないのです。

 こうした現代の社会状況を考えると、一概に「労働者は弱者である」とは言えないのではないか、と思わざるを得ません。

 

特別養護老人ホームで働く市場原理
 実際、労働力の需給バランスによっては、労働者のほうが上の立場に立つケースも少なくないでしょう。

 典型的な例として挙げられるのが特別養護老人ホームです。重度介護者のお年寄りを24時間態勢で介護する老人ホームは、慢性的な人手不足に苦しんでいます。

 賃金に不満がある労働者のなかには、賞与をもらったとたん退職する人も少なくありません。そしてハローワークの求人情報を見て賃金を比較し、いちばん高い給料を払ってくれる老人ホームに就職していくのです。

 いきなり人手が足りなくなってしまった使用者は賃金を上げざるを得ないでしょう。こうして老人ホームの賃金はどんどん上がっていきます。

 もちろん、人件費の上昇にともなって老人ホームの収益が増加すれば問題はないのですが、利用料金をむやみに上げて収入を増やすわけにはいきません。つまり人件費の支出が増えても、一定の収入しか得られないのです。

 こうした現実を考えると、特別養護老人ホームにおける使用者と労働者の立場は少なくとも対等、もしくは逆転しているといえるのではないでしょうか。

 使用者と労働者の立場が逆転しているのは、特別養護老人ホームに限ったことではありません。塗装業や溶接業など、厳しい肉体労働が伴う職場でも慢性的に労働力が不足しています。

 こうした職場では、厳しい仕事を与えると労働者がすぐに辞めてしまうため、使用者は労働者に気をつかいながら仕事の指示を与えることになります。高い賃金を払いながら、労働者のご機嫌をとらなくてはならない使用者にしてみれば、自分のほうが上の立場にあるとはなかなか思えないでしょう。

 しかしその一方で、かなり安い賃金で雇用されている労働者がいるのも事実です。

 たとえばエアコンが効いているオフィスでのデスクワークなど、比較的楽な仕事は人気があり、安い給料でも働きたいという人はたくさんいます。美容師やネイリストなど、若者に人気のある職業の労働条件も決してよくはないでしょう。

 要するに労使の力関係は、労働力の需給バランス、市場原理によって、業種ごとに大きく変わってくるのです。

 高度経済成長を遂げた日本の産業構造は、労働基準法が制定された時代とは大きく変わりました。第一次産業第二次産業から第三次産業へと産業がシフトし、しかもその中身は細分化されています。工場労働者の保護を目的とした労働基準法で、すべての業種、職種を規制するのは難しいと言わざるを得ません。

 

生活残業」を求める労働者
 中小企業の経営者にしてみても、労働者の立場は弱いという前提に納得できる人は少ないでしょう。むしろ、自分は何のために働いているのだろう、自分のほうが社員にこき使われている、と虚しく感じている経営者が多いように感じます。

 そして労働者のほうも、労働法が100%適用されることを望んでいるわけではありません。

 たとえば、労働法では労働者の健康被害を防ぐために1日8時間、週に40時間という法定労働時間を定めていますが、この時間通りに働きたいという労働者は少ないように感じます。たとえ経営者が法定労働時間を守ろうとしても、それに異議を唱え、残業を希望する労働者がどこの会社にも必ずいるのです。

 「生活残業」という言葉があるように、住宅ローンや子供の養育費、あるいは年老いた両親の介護費用など、毎月決まった支出がある労働者にとっては、残業して得られる残業代もすでに生活費用の一部になっているからです。

 景気がいいときに30万円の給料をもらっていた人は、同程度の給料を毎月得られることを前提に家計を組み立てているので、残業代をゼロにするわけにはいきません。そこで労働者は、せめて28万円の月給を維持したいので残業をさせてほしい、土曜も工場を稼働させてほしいと要求します。

 ときには経営者には社員の生活を守る義務があるとして、団体交渉の場で残業する権利を主張する労働組合もあるほどですから、法定労働時間の規定が現代の労働者のニーズとマッチしていないことは明らかでしょう。しかもそうした労働者の要求をのんで生活残業を認め、余分な給料を払っている経営者は少なくありません。

 過去に残業拒否闘争があったのは事実です。高齢のベテラン社員のなかには、残業をさせろという若い社員に違和感を覚える人もいるでしょう。しかし、日本人は働き過ぎだから労働時間を減らせ、残業は悪だ、という時代は終わりました。労働者の考えも時代とともに変化しているのです。

 要するに、労働法は労働者の保護を目的としている法律にもかかわらず、肝心の労働者のニーズからもずれつつあるわけです。労働法は日本の産業構造や経済状況、労使双方の現状から乖離してしまっていると言っても過言ではないでしょう。

 

それでも労働法の改正はハードルが高い
 労働法を改正しようという動きもあります。

 とくにホワイトカラーと呼ばれる職種はブルーカラー(工場労働者)とは異なり、個々のペースで仕事を進め、その成果が評価されるべき仕事です。

 たとえば定時に出社して深夜まで残業しているけれどもまったく結果を出せない人と、会社にいる時間は短いけれども確実に成果を上げる人がいたら、後者のほうが高い評価を得られるのは当然でしょう。

 にもかかわらず、労働基準法に従って時給と労働時間の単純かけ算で給料を計算すると、前者のほうが高い年収が得られるのです。給料を払う側の使用者からすれば、これほどおかしな話はありません。

 そこで2007年、一定の年収以上のホワイトカラー労働者については労働時間の規制を免除、緩和しようというホワイトカラー・エグゼンプション(ホワイトカラー労働時間規制適用免除制度)の導入が検討されました。

 しかし全労連、連合、全労協などの労働団体は、残業代カットを認める法律としてこれを「過労死促進法案」だと強く批判し、マスコミも「残業代ゼロ法案」などと大きく取り上げたのです。

 こうした動きを受け、政府はホワイトカラー・エグゼンプションの導入を断念しました。有権者の大部分を占める労働者を敵にまわしてまで、この制度を導入したいと考える政治家はいなかったのでしょう。

 その結果、「労働者の立場は弱い」という労働法の画一的な考え方が、未だに適用されているのです。